「私は人生で何を為すべきなのか?」
中二病じゃなくたって、そんな問いがアタマを駆け巡って消えなくなるような経験って誰にでもあるハズ。私も最近まで、そんなもやもやを抱えていました。
あそび師Kai
目次
こんな問題を抱えていませんか?
モヤモヤ1. これが夢!って確信を持っていえない
バンドは好き。でも、バンドマンとしてプロを目指すのはなんか違う。
デザインの仕事は好きだし向いてると思う。
でも一生それを続けたいか?って聞かれたらそうでもない。
おっきくなったら何になりたい?→遊んで暮らしたい!
でも、一人で?誰かと一緒に?海辺で?海外で??…なんだかヴィジョンがふわっとしてる。
今挙げたのは、つい最近まで私の中に渦巻いていたもやもやたち。
子供の頃からの夢を追いかけて自己実現してる人ってなんだかキラキラしているし、称賛されるのも納得。
でも、どうして彼らには確信がもてる夢があって、私はどれもこれもなんか違うって思うんだろう?
モヤモヤ2. なにがしたいのかわからない
全身全霊で取り組める、情熱をもって夢中になれるものがほしい。
人目なんか気にせずに、誰に批判されてもそれをやっている自分を誇れるような。
焦燥感や乾きを拭い去ってくれるような何かがほしい。
でも、それがなんなのかわからない。
その結果、「本気」を求められた時にどうも閉塞感を感じて離脱しちゃうんだよね…。
モヤモヤ3. やりたいことをやっていても、なんか続かない
なんか楽しそう…!と思ってやってみる。
↓
そこそこ上達するまでは真剣に取り組める。
↓
だけどそこからさらに高みを目指すには、なんだかちょっと抵抗がある。
遊びでやるなら楽しい、だけど上達のための練習は楽しくない。
誰かに批評されるとココロが折れてしまう。
そんな時は、冷静に自分を受け入れてみるといいかも。
ギフトという考え方
世間一般では、あなたのような(私のような)生き方は「根性が足りない」とか「逃げぐせがある」とかって言われるかもしれない。
でも、その言葉を受け止めて落ち込んでいるあなたはまだ、それを肯定的に評価してくれる世界があるのを知らないだけかも。
「ギフト(=持って生まれた才能)」っていう言葉を調べてみて。
日本では特に、我慢して、苦しんで、どうにか乗り越えて成長する道が美徳とされる風潮があるよね。
でも、持って生まれた才能を活かして、ただただ好きなことに没頭していた結果、その才能が助長されて能力が開花する、っていうケースもあることは確か。
持論では、この努力も我慢も才能のひとつ。
後者のケースは「天才肌だから苦労していない」っていう意味ではもちろんない。
だけど彼らにとってその努力や我慢は、耐えられないほどじゃないってこと。
逆にいうと、世間の人が思う「苦労」を楽しんでやれているんだと思う。
そういう視点をもってからは「生まれ持った能力に逆らおうとするのってナンセンス」…って、結構本気で思ってる。
もう一度冷静になって自分を見つめてみて。
世間の評価基準を軸にせずに、ありのままの自分を冷静に客観視してみると、少し見え方が変わってこない?
本当はやりたくないことをやってしまってない?
前述の「ギフト」の考えをベースに考えてみると、「なんか違う」と感じることって、多分ホントにどこかしらが自分のやりたいこととは違うからなんだと思う。
例を挙げると私の場合、
・バンドで歌ったり
・メロディラインを考える
のは好きだけど、
・ステージングの練習をしたり
・バンドマーケティングのためにファンづくりをしたり
・フライヤーを考えたり
・メイクやステージ衣装を考えたり
っていうのはなんだか楽しめなかった。
もちろんこんなこと、声を大にして言ったらワガママでヘンなことくらいわかってる。
多分私はバンドマンと歌い手を履き違えていて、彼らが舞台演者(パフォーマー)であることを度外視していたの。
だけど、小学生からV系に心酔して、バンドマンの仲間入りすることを憧れて憧れて育った私は、自分が(本当の意味で)バンドマンになりたいわけじゃないって事実を受け入れられなかった。
だから、バンドマンになることに固執していたんだと思う。
で、結論。今の私はただ、歌うことが好きなんだって気付いてる。
それをすごく人に見せたいだとか、それで食っていきたいって気持ちはそんなにない。
実を言うと、今までにプロを目指せるチャンスは3回訪れた。
なのに運命がまさに動き出そうとした時、なぜか心にブレーキがかかってしまったのは、そういうこと。
ただしひとつだけ忘れちゃいけないことがある。
カラオケじゃなくてバンドサウンドを好むのは、私にとって音楽を通して得られるメンバーとの一体感がとてつもなく心地よかったから。
バンドマンとしてプロを目指さないとしても、私にとってこの心地よさは、手放してはいけないもの。
こんな風に「既存のカタチ」にとらわれないで、「何になりたいか」ではなく「何がしたいか」っていう視点を持つのが、もやもや解消のためには必要なんだと思う。
本当にやりたいことさがしをしてみよう
胸に手を当てて考えてみて。
過去のいっときにでも、時間を忘れるほど没頭して取り組めたものって、本当にない?
あそび師Kai
こどもの頃に好きだったことって、結構原体験になってると思うの。
歌うのが好き、踊るのが好き、お絵描きが好き、サッカーが好き、車が好き。
こういう「好き」を、大人になる過程でどこかに置いてきてしまってない?
「好きを仕事に」論争では、すぐに「オトナ」が口を挟んでくる。
歌うのが好きなら歌手に、踊るのが好きならダンサーに、お絵かきが好きなら画家に、サッカーが好きならサッカー選手に、車が好きならレーサーに。
でも、それになるのは楽じゃないから。そんなのロクな職業じゃないから。画家じゃ食っていけないから。
だけどいまは、夢がそんな「大人の言葉」に汚されるような時代じゃない。
「楽じゃないからって諦めない」「ろくな仕事かどうかは俺が決める」「食っていけるくらい知名度を挙げてやる!」って、ストレートな反骨心で頑張るのももちろん立派。
でもそもそも、もっと前提から疑ってみるべきなんだと思う。
踊り好きが目指すべき道はダンサー1択じゃないし、車に関わるお仕事だって世の中にはたくさんある。
日本では食べていくの難しいと言われている画家だって、国が違えば余裕で遊んで暮らせるって話も聞く。
だけど問題はそこでもないの。
こういった「仕事」っていうカタチからじゃなくて、「これがしたい」っていう欲求をそのままのカタチで取り出してみて。
お金がどうこうとか、世間体がとか親がどうとか、そういうすべての問題が介入してこなかったとしたら。
人脈がないとか経験がないとか、歳を取りすぎてるからとかそういう問題はぜーーーーんぶ度外視して。
そういう、諸々のオトナの事情を抜きにして、考えてみて!
それでもわからなければ
それでもやりたいことがわからなければ、気になるものに手を出してみるのもいい
「どうせまた中途半端でやめちゃうし…」って思わなくて大丈夫。
ここまででわかったでしょ?
今まで「途中でやめてきたもの」の中にも、それが好きになる要素はあったはず。
「やってみる」気になるのは、なんかしら惹かれる要素があるから。
その「好き」を積み上げていくことは、(途中で何度やめたとしても)挫折なんかじゃない。
まとめ
「なんかしたいけど何をしていいかわからない」ひとは、
- 手始めに本当はやりたくないことをやめてみよう。
- その次に、本当にやりたいことをみつけて。
- もしそれでもわからなければ、気になることを手当たりしだいやってみるといい。
あそび師Kai